進路確定

将来の夢:ヒモ

我輩は猫である。名前はまだ(分から)ない。

彼との出会いは1年前の3月だった。バイト帰りの夜。駅からの帰り道の途中、夜になると下の町並みが一望できる、見晴らしの良い公園の前を通りがかった時のことだった。

 

暗がりの中でも、さらに一際目立つ黒くて丸い物体が木の下にいるのが目に入った。興味本位で近づいてもそれは動くこともなく、そこに静かに鎮座していた。

僕が撫でようとすると、彼はすくっと立ち上がり木に身体を擦り始めた。その時初めて、彼が野良猫ではないことを悟った。首に上品なリボン型の首輪を巻いていたからである。

彼は気が済むまで木に身体を擦ったあと、背中を撫でていた僕の手をスルりと抜けて、僕から1mほど離れた場所に背を向けて、また静かに鎮座した。静寂の中、その場で動くものは、彼のお尻から一定のリズムで左右に揺れる尻尾と、時々通りかかる車だけだった。

 

次に彼と再会したのは、その4ヵ月後のこと。彼は塀の上でぼーっと一点を見ていた。僕も久しぶりに見かけたので、その猫が本当に彼かどうか怪しかったが、彼は僕の姿を見ると、一声「ニャー」とも「クゥーン」とも言えない彼特有の少し高めの鳴き声を発して僕の後を追いかけてきた。まさにそれは公園で、木に身体を擦っていた彼だった。

その日を境に彼はその塀に夜11時頃、毎日のように現れるようになった。といっても最初のうち、それは僕と遊ぶ為ではなく、単にその居場所が気に入ったから居るようであった。実際、僕が11時頃に彼のところへ遊びにいくと、他の人が彼と遊んでいることもよくあった。そして、その人が帰ってから彼と遊ぼうとすると、撫でようとしてもスルりと僕の手から離れてしまった。そして一番初めに出会った時のように1mほど離れた場所に、背中を向けて尻尾を振りながら座ってしまうのである。その後ろ姿から「僕はもう遊び疲れたんだ。少し放っておいてくれ。」と言っているように感じた。そんな時、僕は「よし分かった。」と、近くの駐輪場の階段で座りながら、彼がまた遊ぶ気分になるのをのんびり待つのである。(大体10分くらい経てば、彼は僕と遊んでくれた。)

 

毎日毎日会っているうちに、彼も僕のことを覚えてくれたらしい。いつもの時間に塀に居ないとき「あれ?今日はどうしたんだろ?」なんて思っていると、どこからともなく「あ、いつも来る奴だ!!僕はここに居るよ!!!遊んで!!!」と言わん張りに鳴きながら、全速力で駆け寄ってきた。そして彼の仰せのままに、いつものように、猫じゃらしで遊んだり、一緒に星を見たり、彼の尻尾を掴んでイタズラしたりした。次第に僕は彼に依存していった。

 

#彼についてのメモ

・彼は絶対に怒らない。噛み付くこと、威嚇することを見たことがない。

・意外にとても臆病である。散歩している犬を見かけると、どんなにじゃれていても木の陰に隠れてしまう。

・雨の日、彼はすこし獣臭くなる。

・彼の名前は分からない。僕は彼を「あいつ」とか「お前」と呼ぶ。

・日によって微妙にいる場所が変わることがある。それは近くの植木鉢だったり、車庫の隅だったり、公園だったりする。

・雑草をむしゃむしゃ言いながら食べる。その咀嚼音はどことなく愛くるしさを感じる

・彼の舌はザラザラしてまるでヤスリのようである。でも舐められても全く痛くない。

・オスなのにとても整った顔をしている。彼がメスだったら絶対にモテただろう。

・たまに首輪の種類が変わる。それは赤の首輪だったり青の首輪だったりする。ちゃんと飼い主の家には帰っているのだろう。

 

途中から後輩が週に1回くらい、僕と一緒に彼のところへ遊びにいくようになっても、相変わらず彼は塀にいた。2人で話すのが苦手な僕でも、その場に彼がいて3人になれば、その後輩とも緊張せず話すことが出来た。その3人の世界は、戦争も争いも妬みも寂しさも、そう言った負の要素が一切切り離された、真っ白な平和な世界だった。そんな世界が好きだった。

 

9月の半ばくらいになってから、彼が塀に居る頻度は少なくなっていった。そしてバラバラな場所に出没するようになった。僕は後輩と二人で夜中の住宅街を探しに行った。暗闇の中、思いもよらない場所に彼が潜んでいるのを見かけた時、僕はホっとした。また3人の平和な世界に行ける。そう考えるだけでとても満たされた気持ちになった。そして猫じゃらしで彼をじゃらしたり、後輩と二人で彼の頭を撫で回して遊ぶのである。

その平和が崩れ始めたのは、秋も深まってきたころ、彼のことを見つけられる頻度が週に2回くらいにまで落ちてしまった頃だった。そして、12月にもなり冬の雰囲気も深くなってきた後を最後に、彼と僕と後輩の3人の平和な世界は終わった。彼はめったに僕の前に姿を見せず、後輩には彼氏が出来て、僕と夜中出かけるのが難しくなってきたからである。

 

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

つい最近、ウチのアパートの駐輪場に彼が居た。彼は僕の姿を見かけると「おぉ、久しぶりだな」と言わんばかりに一声鳴き声をあげて僕の元へとやってきた。あまりに突然のことであっけに取られていたのだが、ようやく我に帰って前と同じように尻尾を掴んだり、猫じゃらしでじゃらしたりして遊んだ。つかの間の幸福だった。

それから彼とはまたぱったり会っていない。もしかしたら、つい最近会ったのは幻想だったのかもしれない。そう思ってしまうくらいに、またプツっと彼の姿の痕跡さえも見られなくなってしまった。でも心配する必要はない。きっと今頃どこかでのんきに、その平和の象徴である尻尾を振りながら鎮座しているに違いない。根拠はないけどそんな気がするのである。

 

 

f:id:tonakun:20180518185930j:plain